「白洲次郎と正子の世界観~武相荘を訪ねる~」(1日講座)に参加して

以前から行ってみたかった、白洲次郎と正子が暮らした、町田市鶴川にある「武相荘」を訪ねる講座がNHK学園くにたちオープンスクールで開かれましたので、参加してきました。

同講座リーフレット↓

白洲次郎は裕福な家庭で育ち、ノブレス・オブリージュの精神を持ち、戦後、マッカーサーにある場面で怒りをぶつけたり、サンフランシスコ講和条約締結に貢献したりして、「風の男」と呼ばれ、妻の正子は伯爵家の生まれで、能に造詣が深く、骨董収集家・随筆家で、多くの著作があり、取材に東奔西走する姿から「韋駄天お正」とあだ名されていました。

二人のプロフィール(「武相荘」のパンフレットより)

所在地が武蔵と相模の境にあることから、次郎が「武相荘」と名付けたそうです。

二人は昭和3年に出会い、婚約時代に次郎が正子に送ったポートレートには英語で「君こそ僕の発想の源であり究極の理想である」との言葉が添えられ、その熱愛ぶりが窺われ、翌年に結婚しています。

次郎は、戦後、GHQとの折衝に当たったり、特使として渡米して平和条約のお膳立てをしたり、東北電力では異色の会長として現場を廻るなど、何事においても「プリンシプルに忠実」で生涯を貫き、80歳になるまでポルシェ911を乗り回したり、185㎝の長身で完璧な英語を話すという、カッコいいダンディズムで生き、昭和60年、夫婦で軽井沢、京都を旅して帰京後に倒れ、最後に残した言葉は、注射のため利き腕を尋ねた看護婦に「右利きです。夜は左(お酒)....」だったそうです。83歳。
遺言はたった2行、「葬式無用 戒名不要」でした。
正子は4歳で能を習い始め、14歳で初舞台を踏んでいます。薩摩藩士・伯爵樺山家に生まれた性格やその出自を意識し、次郎と口論になったり、張り手をしたこともあったとか。1943年に町田市の古農家に移り住み、文筆家としての道を歩み始め、能、着物、仏像など、多くの著作、作品集、対談・共著を遺し、ビジュアルブック、伝記・評論もあります。1998年に肺炎のため88歳で亡くなり、次郎と共に兵庫県三田市の心月院に眠り、両人に戒名は無く、梵字が墓石に刻まれているだけだそうです。

施設全容↓
右上から時計回りにレストラン武相荘(工事中)、母屋(奥)、母屋正面、散策路、真ん中がバー&ギャラリー「Play Fast」。

二人が農作業をしたり、骨董を愛でたりの晴耕雨読の生活の様子が偲ばれます。
正子が執筆していた本に埋もれ本棚に囲まれた書斎(撮影禁止)は、直前まで正子が執筆していたかのように臨場感がありました。机上にポータブルテレビがあり、「韋駄天お正」と呼ばれたくらいですから、片時も情報を逃すまいとの意気込みの表れか、あるいは、気晴らしのためかもしれませんが。
「Play Fast」はホームバーだったようですが、現在は、倶楽部メンバー限定で、一人でゆっくりとか、メンバー同士とかで利用できるようです。
見学に先立ち、レストランでの昼食でチキンカレーをいただきました。
次郎はキャベツにカレーをかけていたそうで、スタッフの方に勧められ、同じようにしてみましたが、微妙な味でした。

上の写真にはない入口傍らのカフェに展示してある、次郎がイギリス留学時代に乗っていたものとほぼ同型の車で、これで二人乗り、大きいです。

↓こちらが次郎の愛車ベントレー3Lです。やはり違います、ビシッと、ドッしり決まってますね。次郎の留学先ケンブリッジ大学周辺を颯爽と走る姿が浮かびます。イギリスに行けば、きっと今でもクラシックカーとして乗れるのでしょうね。下は別の愛車ベントレーXT7471の運転席です。

右は次郎愛用のオリベッティ社製タイプライターです。